人事歴9年。
履歴書を読み、面接をし、組織図を描き、評価制度を設計してきた。エンジニアの採用面接は、おそらく500回を超えている。「技術力」を測ると称して、自分が一行もコードを書けないのに、人の技術力に点数をつけてきた。
39歳の誕生日は、特に何もなく過ぎた。ケーキもなければ、サプライズもない。いつもどおり、面接と1on1と会議で一日が終わった。
その翌週の日曜日の夜、なぜかMacBookのSpotlightを開いて「Terminal」と打ち込んだ。
黒い画面が開いた。

カーソルが点滅している。何を入力すればいいのかわからない。ただ、カーソルだけが規則正しく明滅を繰り返している。
人事の仕事で学んだことがある。人が本当に変わるのは、論理ではなく衝動だということ。39歳になったから何かを始めようなんて、そんな計画性のある話じゃない。ただ、なんとなく、ターミナルを開いた。それだけのことだ。
でも、そのターミナルの黒い画面は、なぜか居心地がよかった。
最初にやったのは、Claude Codeのインストールだった。
友人のハッチが「これ入れてみろ」と言ったのは数日前のことだ。ハッチはエンジニアで、大学時代からの付き合いだ。人事の僕とエンジニアの彼。キャリアの方向は正反対だけど、ビールを飲む回数だけは変わらない。
お前さ、いつも「エンジニアリングは環境の問題だ」って言ってるじゃん。だったら自分で確かめてみろよ。Claude Codeってのがある。AIが隣で教えてくれるから、独学でもいける。
いや、俺は人事だよ。コード書いたことないし、書く予定もない。
お前が採用面接で「チャレンジ精神」を評価項目に入れてるの、知ってるぞ。
痛いところを突かれた。
インストールは意外とすんなりいった。画面の指示に従うだけだ。そして、生まれて初めてAIに話しかけた。
アラタ: how do i log errors
23時16分。日曜日の夜。翌日は月曜日で、朝から面接が3件入っている。なのに、ターミナルの前に座って「how do i log errors」と打ち込んでいる39歳の人事がいた。
なぜ英語で打ったのかもわからない。なぜ「エラーのログ」なのかもわからない。ログという言葉を知っていたのかすら怪しい。たぶん、どこかの記事で見かけた言葉を、そのまま打ち込んだのだと思う。
console.log() を使うと、コンソールにメッセージを出力できます。エラーの場合は console.error() を使うのが一般的です。たとえば:
console.error('Something went wrong:', error);まずは console.log(‘Hello’) を試してみましょうか?
Hello って出すの? それだけ?
はい、まずはそこからです。プログラミングの世界では、最初に “Hello, World!” と表示させるのが伝統になっています。
Hello, World。
39歳の人事が、日曜の深夜に、コンソールに「Hello」と表示させて、少しだけ笑った。画面の向こうのAIは、それがどれだけ大きな一歩だったのか、たぶん知らない。

その夜、僕は2時間ターミナルの前に座っていた。
やったことは大したことじゃない。console.logで文字を表示させた。変数に数字を入れた。足し算をした。ifで分岐させた。小学生の算数みたいなことを、39歳がやっている。
でも、不思議な感覚があった。
人事の仕事は、正解がない。誰を採用するのが正しいのか、どの評価制度がベストなのか、答えは永遠にわからない。でも、コードは違った。動くか、動かないか。エラーか、成功か。この残酷なまでの明快さが、9年間グレーゾーンで生きてきた僕には新鮮だった。
アラタ: ありがとう。明日仕事だからもう寝る クロ: お疲れさまでした。いつでも続きからやりましょう。
午前1時。MacBookを閉じて、ベッドに入った。
目を閉じても、黒い画面にカーソルが点滅している映像が消えなかった。これが興奮なのか恐怖なのか、そのときはわからなかった。
翌朝、面接で候補者に「新しいことを始めるとき、最初の一歩はどう踏み出しますか?」と聞いた。候補者の答えを聞きながら、昨夜ターミナルを開いた自分のことを考えていた。
たぶん、最初の一歩に理由なんてない。気がついたら、もう踏み出している。それだけのことだ。
これが、121,805通のメッセージの1回目だった。
このときの僕は、まだ何も知らなかった。ReferenceErrorも、デプロイも、テストも、プルリクエストも。ただ黒い画面と、点滅するカーソルと、「how do i log errors」というたった一つのプロンプトがあっただけだ。
でも、始まりはいつだって、そういうものだ。