「何を聞けばいいのかわからない」。
これは、人事面接でたまに見る光景だ。逆質問の時間になって、候補者が固まる。「特にありません」と言うか、的外れな質問をするか。質問力は、その人の理解度を映す鏡だと、僕は採用マニュアルに書いた。
まさか、自分がその状態になるとは思わなかった。
ターミナルを開いて2日目。Claude Codeは起動している。カーソルが点滅している。でも、何を聞けばいいのかわからない。
プログラミングを始めたいと思っている。でも、「プログラミングを始めたい」と打ち込むのは、レストランに入って「おいしいものください」と言うのと同じだ。具体性がゼロ。
15分くらい画面を見つめていた。
えっと、何から始めればいいですか
何を作りたいか、もしくは何を学びたいかによってルートが変わります。何か作りたいものはありますか? たとえばウェブサイト、アプリ、データ分析ツールなど。

作りたいもの。そう聞かれると困る。人事の業務で「これがあったら便利なのに」と思ったことは山ほどある。でも、それをコードで実現できるなんて発想がそもそもなかった。
作りたいもの、特にないです。ただ、プログラミングがわかるようになりたい。エンジニアの面接をしてるので。
なるほど、エンジニア採用に活かすためですね。それなら、まずはWebの基本から始めるのが実用的です。HTML、CSS、JavaScriptの3つを軽く触ってみましょう。
まずは簡単なHTMLファイルを作ってみますか?
HTMLファイル。名前は聞いたことがある。ウェブページのもとになるやつだ。たぶん。
最初のプロンプトが恥ずかしかったのは、「何から始めればいいですか」という質問そのものじゃない。その後に続いた一連のやりとりだ。
アラタ: ファイルってどうやって作るの クロ: ターミナルで touch index.html と入力してください アラタ: touch? 触るの? クロ: touchコマンドは空のファイルを作成するコマンドです アラタ: なんで「作る」じゃなくて「触る」なの
なぜ「create」じゃなくて「touch」なのか。この質問にクロは丁寧に答えてくれた。Unixの歴史がどうとか、タイムスタンプがどうとか。正直、半分も理解できなかった。でも、質問できるということ自体が新鮮だった。
人事の仕事では、僕は「聞かれる側」だ。制度の説明、方針の説明、評価のフィードバック。常にアウトプットを求められる。9年間、「わからない」と言う機会がほとんどなかった。
AIの前では、恥ずかしいほどの初心者だ。でも、AIは笑わない。馬鹿にしない。履歴書に「人事部長」と書いてあっても、「touchって何?」という質問に同じ丁寧さで答えてくれる。
その夜、もうひとつ気づいたことがある。
さっき教えてくれたコード、コピーして貼り付けたら動いた。でも、なんで動いてるのかわからない。
動いたのは良いことです。でも、理解せずにコピペするだけだと応用が効きません。1行ずつ説明しましょうか?
お願いします。全部。
「全部」と言った。15行くらいのコードだったと思う。クロは本当に1行ずつ説明してくれた。<!DOCTYPE html>が何を意味するのか。<head>と<body>の違い。<p>タグがparagraphの略だということ。
アラタ: paragraphの略かー。英語じゃん クロ: はい、HTMLのタグは多くが英語の略語です。覚えやすいように語源を知っておくと良いですよ アラタ: hrタグは何の略? クロ: horizontal rule(水平線)の略です アラタ: HRが人事じゃなくて水平線なの、ちょっとショック
HRが人事(Human Resources)じゃなくて水平線(Horizontal Rule)。些細なことだけど、自分の9年間の常識が通用しない世界にいるんだと実感した瞬間だった。
3日目になると、質問の仕方が少し変わった。
「何から始めればいいですか」から「このエラーはどういう意味ですか」に変わった。質問が具体的になったのは、失敗が増えたからだ。何かを試して、壊して、エラーが出て、それについて聞く。このサイクルが回り始めた。
CSSで文字の色を変えたいんだけど、colorって書いたのに変わらない
CSSファイルはHTMLにリンクされていますか? <link> タグで読み込む必要があります。
リンク? HTMLとCSSって別々に書くだけじゃダメなの?
HTMLファイルに対して「このCSSファイルを使ってください」と明示的に指定する必要があります。ファイルを作っただけでは自動的には繋がりません。
当たり前のことが、初心者にはわからない。ファイルを作ったら勝手に繋がると思っていた。人事の世界で言えば、「採用した人が勝手にオンボーディングされると思っていた」くらい間抜けな話だ。
1週間が経った頃、ハッチに進捗を報告した。
で、どうよ。プログラミング。
HTMLで文字を赤くするのに3日かかった。
上出来じゃん。俺は最初、1週間かかったよ。AIなしだったからな。
……慰めてる?
いや、マジで。最初のプロンプトが一番難しいんだよ。何を聞けばいいかわからないのが一番つらい。それを超えたんだから、もう大丈夫。
最初のプロンプトが一番難しい。
ハッチのその言葉が、ずっと頭に残っている。何を聞けばいいのかわからない状態から、何かを聞ける状態になること。それだけで、実は大きな壁を一つ越えている。
アラタ: 今日はJavaScriptで計算機を作りたい クロ: いいですね。まずはどんな計算機にしたいか考えましょう。足し算だけでいいですか? アラタ: 四則演算全部。できるかわからないけど
「できるかわからないけど」。このフレーズを、僕はこの後何百回と繰り返すことになる。でも、このときの僕はまだそれを知らない。
「how do i log errors」から始まった対話は、1週間で「計算機を作りたい」に変わった。プロンプトが変われば、世界が変わる。人事面接で候補者の質問力を見てきた僕が、今度は自分の質問力を育て始めていた。